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■ヴォ・ル・ヴィコント

ヨーロッパ中、いや世界中の宮殿がモデルにしたヴェルサイユ宮殿が見習い、手本にした城があった!!!
その城こそがヴォ・ル・ヴィコント
「見学のしおり日本語版」が出来ました(フランス語版より翻訳者 黒澤オサム)
城館入口でお求め下さい(無料)この機会に抜粋して紹介します。



  マザラン枢機卿によりルイ14世の財務長官に任命されたニコラ・フーケは1656年、その地位と財産にふさわしい城をヴォ・ル・ヴィコントに建設することを決めた。
ラ・フォンテーヌ、セヴィニエ夫人、スキュデリ嬢、ペリソンほか多数の芸術家たちの親しく威信あるメセナであるフーケが新築の設計をゆだねたのは、その才覚によって初めて抜擢したチーム、すなわち建築師ルイ・ル・ヴォー、絵師・装飾家シャルル・ル・ブラン、庭園造営師ル・ノートルである。

  1661年8月17日、王家への奉公にまたしても全財産を投げ打とうとしたフーケは、臨幸を希望したルイ14世にヴォ・ル・ヴィコントの有名な祭典を捧げた。フーケは、ルイ14世とコルベール(莫大な蓄財を隠そうとしていた)が4ヶ月来、近々逮捕し、裁判にかけ、死刑宣告を下すつもりでいるとは思いもよらなかった。祭典の3週間後、9月5日、国王はフーケをナントで逮捕するようダルタニァン(銃士隊長)に命じた。

  コルベールが捏造した裁判にもかかわらず、3年の公判の結果、コルベールによって全員綿密に選ばれた判事の多数はフーケに国外追放の投票しかできなかった。不服従に憤慨したルイ14世は判決を加重、フーケを終身懲役に処した。ピエモンテのピネローロ(ピニュロール)城塞牢獄で17年間、生きたまま葬られることになったのである。1680年没。フーケの未亡人が保持したヴォ・ル・ヴィコントは1705年、ルイ14世が戦功報償により公爵ならびに王国貴族に叙したヴィラール元帥に売られた。

  1875年、領地はショワゼル・プラスラン家により売却された。城は長年無人のままで廃墟と化し、庭園は見分けもつかず領地は分散の危機にさらされていた。偶然にヴォを訪れたアルフレッド・ソミエ氏は、このフランスの宝を保存し、17世紀にあった面影を蘇らせる決心をした。競り落として買収、建物を修復、庭園を復元し、家具が何もない状態であった城全館を調度品で備えることに生涯を捧げた。死去した1908年、ヴォの復興は成った。
今日、その直系の子孫ヴォグエ家がこの傑作の保存にあたっている。






ニコラ・フーケ


ルイ14世


玄関
12のドーリア式列柱を配した方形の間には、古代ローマ皇帝の大胸像が置かれている。
セウェルス皇帝(入って左)、ルキウス・ヴェルス皇帝(右)、フーケが所有した2つのローマ闘士古代大理石像。

見学は2階の「小居室」から始めます。

フーケ財務長官の控の間
フーケ財務長官の三居室の内最初は、フーケがコレクションしていた絵画の複製で飾られている。フランス、ナヴァール両王国の紋章を表わした「名声の女神の掛布」と呼ばれるタピスリー。
ガラスケースに展示されているのは、ヴォ・ル・ヴィコント友の会が取得した真正の写本と稀少の本。

フーケ財務長官の小室
当初の装飾は1767年の板張りに代えられて、フーケ財務長官の有名な図書室(27000冊蔵)にゆかりある数冊の本が置かれている。
装丁の中央に認められるのはニコラ・フーケの紋章「リス」(「フーケ」とはアンジュ地方方言でリスのこと)、銘句「登れぬところがあろうか」は家門の野心を象徴している。
フーケ財務長官が保護した詩人ラ・フォンテーヌの思い出にも捧げられている。
フーケの失脚にもかかわらず、忠誠を通したラ・フォンテーヌはルイ14世から恩赦を得るため多くの嘆願書を著わし、なかでも「ヴォの精霊たちの哀歌」が有名である。
ウードン作テラコッタ陶器製の詩人胸像が、デポルトが描いたラ・フォンテーヌの「寓話詩」のテーマを描いたサヴォヌリー製衝立に対比して引き立つ。
そこにある本のうちには「寓話詩」の最良版が2つ、即ちウドリーによる挿絵付(17世紀)とグスターヴ・ドレによる挿絵付(19世紀)。

フーケ財務長官の寝室
フーケが最後の自由な夜を過ごした寝室。ガラスと鉛製のステンドグラスをはめ込んだ窓、恐らくコテルによって描かれた天井。壁にはフーケが自室用に選び、王が逮捕後、没収、横領した壁掛けのコピーであり、1700年ごろゴブラン工場で制作された5つの連作タピスリー「月それぞれ」。

廊下
左手枠組み内には、コルベールがニコラ・フーケに死刑判決を下すため、わざわざ選んだ判事の名と肖像。うち13名は良心に従い国外追放に投票し、9名はコルベールの命に従い報償を受ける。
右手、ピネローロ(ピニュロール)城塞の天守で死ぬまで、フーケが移転させられた様々の牢獄。


フーケ財務長官の控の間


フーケ財務長官の小室


フーケ財務長官の寝室



フーケ夫人の私室
庭園に面した私室、寝室、控の間からなるフーケ夫人旧居室のうち、唯一改装されていない部屋。天井は17世紀に描かれた風景と有翼女人の絵でとりまかれている。角にはフーケの後妻マリ・マドレーヌ・ド・カスティーユの紋章である銃眼付の塔が、夫の紋章リスを支える。暖炉の上には「囚われのキューピドン」即ち「永遠に逃さぬためキューピドンの翼を切る美貌の女神」をテーマにしたル・ブラン作フーケ夫人肖像画の古いコピー。4対の女人像柱で支えられた17世紀はじめの稀少なコクタン製キャビネットと「マザラン」小机。

ルイ15世風小室
フーケ夫人の旧寝室に18世紀初め間取りした小室は、当時の化粧用に使われた用具が置かれている。

ルイ15世風寝室
フーケ夫人旧寝室の3分の2ほどを占める。現装飾はヴィラール元帥夫妻がヴォに滞在する友人に供した寝室用のものを復元した。家具はルイ15世時代の典型で、天蓋つき大寝台、たんす、つづれ織り張りひじ掛け椅子。

ルイ16世風寝室
塗り羽目板で飾られたこの部屋には、奥に寝台用へこみがあり、1764年ヴォを取得したプラスラン公ガブリエル・ド・ショワゼルの肖像はロスリンによる複製。
寝室の周囲には、化粧室、控の間、従者用小室、出口(現在は階段)、ルイ16世時代家具。

ソミエの回廊
通路には、1875年来ヴォ・ル・ヴィコントの復興と保存を負うソミエ家とその子孫の肖像画が並ぶ


フーケ夫人の私室


ルイ15世風小室


ルイ15世風寝室



ルイ16世風寝室


1階に戻り、「大居室」の見学

また、ドーム骨組みの見学と、領地全体を見下ろす頂塔へ登ることも出来る(有料2ユーロ)。

階段を降りながら上を見れば、ルイ15世王妃マリ・レクザンスカのヴォ・ル・ヴィコント訪問を描いたマルタン・ド・バタイユ作の大絵画。

方形の大部屋
城内で唯一ルイ13世様式(天井に梁が見える)で、 ローマ人の勝利を描いた大フリーズが保存され、フーケ時代には現在失われたタピスリーの上部を装飾していた。現在はトゥサン・デュブルイユの下絵によるダイアナのエピソードを描いた5つのタピスリーが代わりにある。
暖炉の上にはヴォ・ル・ヴィコント建設中に描かれたル・ブラン作ニコラ・フーケの素晴らしい肖像画。コクタン製、黒塗り金箔銅象眼の「マザラン」デスク。
窓の間にはベルニーニ風白大理石でルイ14世胸像、両側に17世紀フランスの偉大な宰相が2人、左はマザラン枢機卿の胸像、右側同じくリシュリュー枢機卿。

フーケ財務長官の豪華居室、ミューズの広間
広間の名は、シャルル・ル・ブランが描いた素晴らしい天井のミューズ9人(中央にクリオ、4隅に他の8人)に由来し、フーケに保護されたモリエールが1661年7月13日英王妃アンリエット・ド・フランスとその息女オルレアン公妃の前で「亭主学校」を上演した。
中央の絵はフロンドの乱の最中、国王に示したフーケの忠節を表わす。
へこみの中には、ブールが最初に制作した2つの「マザラン」たんすとクリスタル飾り付き金箔木製大燭台。暖炉の向かいには3枚の鏡板にグラン・タンチーク大理石のブール式18世紀家具。壁には、ルイ13世付法王勅使バルベリーノ枢機卿のため、パリのサン・マルセル場末街で制作された有名な壁かけ「アミンタとシルヴィア」をテーマにした6つのタピスリー。

賭博の間
細密画の繊細さで花束、キューピドン、リスが飾られ、1階で最も陽気で打ち解けた小室。天井中央にはル・ブランの描いた傑作「眠りの女神」。雲上でうたた寝する女神はケシの花を撒き散らす。天井下のフリーズ装飾には、蛇(コルベール)に追われる リス(フーケ)。

ヘラクレスの広間
財務長官の権力と成功の象徴であるヘラクレスに捧げたイタリア風サロン。暖炉の上にはバルディー作「アブラハムに追われるハガル」。正面にはミューズの広間に掛けられたタピスリー「アミンタとシルヴィア」のうち最大のもの。
天井にはル・ブランの描いたヘラクレスのオリンポス山凱旋。
ルイ14世の青銅騎馬像は、パリ、ヴァンドーム広場中央に革命時まであったジラルドン作の模型。赤、黒色大理石の2つの楕円形テーブルは、フーケの家具のうち唯一ヴォ・ル・ヴィコントを一度も去らずにあるもの。ヘラクレスの試練から着想した2つのブロンズを支えている。
窓の間には、ルポートル原作のブロンズ彫刻「父アンキセスを背負い、息子アスカニウスに従われ、トロイを襲う火炎から逃れるアエネアス」。

大広間
城館中央にあり、玄関から進んで庭園へ向かうのに横切る広間。
17世紀には扉もガラスもなく、玄関と大広間は訪問者を庭園とル・ノートルの壮大な展望に誘う吹抜のスペースであった。
大広間はフーケの逮捕によって未完成となった。丸天井(床から18メートル)はル・ブランのフレスコ画「太陽の宮殿」が描かれるはずであった(架台に置かれた下書きデッサン参照)。そこには「季節」、「月それぞれ」など数々のシンボルで取り巻かれて、中央にニコラ・フーケのリスを褒め称える太陽(リスは後、ブルボン家のシンボル白百合に代えられた)。そのデッサンを、廻り来る年始のシンボルであるしっぽを噛んでいる蛇が取り巻く。
この構想はフーケの野心、すなわち自然界と神話の世界に君臨するリスを象徴する。
丸天井を支えている女人像柱はジラルドン作とされる。それぞれが黄道帯のシンボルで飾られ、12ヶ月と四季を象徴する。皇帝とローマ人の色大理石胸像はナポレオン公のコレクションであったもの。


階段


方形の大部屋




ミューズの広間


賭博の間


ヘラクレスの広間


大広間


王の控の間
王の居室にある控の間天井中央では、方形の大きな鏡板を取り巻くのは、化粧漆喰に金箔したフーケの紋章であるつがいのリス。四隅には、F(フーケの頭文字)を組んだメダルで、これはフーケの組み合わせ文字。その下は3つの銃眼付塔を表わした楕円で、後妻マリ・マドレーヌ・ド・カスティーユの紋章。暖炉の上は、ウアス作ルイ14世の騎馬肖像。
マホガニー製本棚は、革命前夜ショワゼル-プラスランにより設置された。とびきり上質の刺繍織り張り摂政式いすがブール作の極めて珍しい大デスクを取り巻く。 床には、紺色地のサヴォヌリー絨毯。

王の寝室
それぞれの城では、城主は最も美しい居室を国王が巡幸中来訪した時のために用意してある。
ここの部屋の装飾は、ルイ14世初期の典型であり、史上最初に実現されたもの。化粧漆喰、金箔、浮彫りが、ル・ブランによって描かれた天井画を飾っている。中央に「時」と「真実」、脇にはフーケの美徳を象徴した神々ヴェルトゥムヌス(豊穣)、ジュピター、メルクリウス、マルス。
風景画をはめ込んだ、コクタン地に白め(すず)と象牙を切りばめ細工したキャビネットが、四季を象徴した逆四角錘と胸像形の金箔木製脚で支えられている。 ルイ14世と王妃の肖像画。その下に金箔木製脚に白大理石板の大テーブル。へこみには、17世紀日本製漆塗りキャビネットが2つ。床には稀少な黒地のサヴォヌリー絨毯。
1661年8月17日祭典の夜、部屋は用意されていたが王はヴォに泊まらず、王太后と共にフォンテーヌ・ブローに帰った。以来この部屋はいかなる王も迎えていない。

旧「王の小室」
王の寝室に隣あわせたこの部屋は未完成である。暖炉の上にシャルル・クワペル作ヴィラール公爵夫人の肖像。正面に、ヴォ・ル・ヴィコント友の会が取得した17世紀初めパリのタピスリー「緑の草木」

次に19世紀ヴィスコンチにより改装された浴室を通過する。

ヴィラール元帥の控えの間
この部屋は元帥の肖像画で飾られ、時の主要人物との書簡が保存されている。

ヴィラール元帥の寝室
大枠の板張りで飾られ、へこみには「プシュケーのエピソード」を刺繍した素晴らしい寝台、祈祷いす、大きな象牙の受難像。

ビュッフェの広間
この広間はビュッフェ(給仕する前に料理を置いた小室)で趣を添え、フーケの旧食堂であった。ほぼ確実に史上最初の食堂である、というのはそれ以前の時代、主人や客のいる部屋に料理が運ばれたから。
天井の9つの鏡板中央には、「豊穣を呼び戻す平和」が四大元素と四季に取り巻かれる。

地下
次に地下に降りると、広々とした部屋があり、構造は3世紀の間変えられず、1956年まで使われた。即ち食器室、使用人部屋、ワイン・カーヴ、厨房。
ここでヴァテル(料理長)が腕を振るった。

「鉄仮面」
3世紀の間、多くの歴史学者が「鉄仮面」の正体を明らかにしようと試みた。
最も多く出された説は、イギリス王の息子、イタリアのスパイ、ルイ14世の私生児、アレクサンドル・デュマに着想させたのは、ルイ14世の双子の兄弟説。
確かな事実は唯一つ、顔を見た者は殺すという看守への命令書。これは「鉄仮面」は誰か高名な人物に似ていたとの考えを裏付ける。

次にアンドレ・ル・ノートルにささげた展示場、そしてフランス式庭園の素晴らしい眺めが広がる城館南側テラスへどうぞ。

>>ヴォ・ル・ヴィコント公式サイト


王の控の間






王の寝室


ヴィラール元帥の控えの間


ヴィラール元帥の寝室


ビュッフェの広間


テラス


中庭




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