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■ドメーヌ・ドゥ・マリー・アントワネット(1)

  1999年12月26日の突風の為、ヴェルサイユの古い木々がかなりの被害にあいました。その後、大ヴェルサイユ・プロジェクトの一環として、"ドメーヌ・ド・マリー・アントワネット"の整備、工事が続けられていましたが、この7月からようやく一般公開されることになり、この夏は大変話題になりました。

  それではこれから、マリー・アントワネットが、宮殿の陰謀、エチケット(宮廷礼儀作法、儀式、しきたり、慣習)から逃れ、一女性として過ごした田舎屋まで、皆様とご一緒に散策しましょう。

【大トリアノン】(写真)
  トリアノンというと何か女性的な響きがありますが、実は、昔ここに在った集落の名前です。でもここは、ブルボン王朝の女性達の物語が繰り広げられた場所でもあるのです。
  マリー・アントワネットが登場する以前には、トリアノンには、ルイ十四世、そして、その曾孫のルイ十五世に至るヴェルサイユに君臨した王様達と、その愛妾達の物語がありました。
  現在は残っていませんが、1670年、ルイ十四世は、表面に青と白の陶器を張り付けた離宮を造営します。その後、1686年から87年にかけて、建築家マンサールが新しい離宮を完成させ、ルイ十四世はここをマントナン夫人に与えました。初期の大トリアノンが現存しないその訳は、陶器という材質の弱さもありますが、信心深く、教養人でもあったマントナン夫人は、前愛妾モンテスパン夫人とルイ十四世王が愛を語りあった、この大トリアノンを取り壊させたかったのかも知れません。
  後継者の曾孫のルイ十五世時代、1741年には王妃マリー・レグザンスカにこの離宮が与えられ、一時、王妃の父王である亡命ポーランド王が滞在した事もありました。
    内部には、ナポレオン一世時代と、ルイ・フィリップ王時代の家具が置かれています。
  又、コテルによって描かれた24枚の絵(コテルの回廊・写真)は、ルイ・十四世時代のヴェルサイユ庭園風景が偲ばれ、資料としても貴重なたいへん興味深いものです。





【フランス館】(写真)
  大トリアノンから小トリアノンに向けて行く途中に、1750年に建築家ガブリエルが建てたフランス館が見えてきます。

  ルイ十五世は大トリアノンをあまり好まず、散策の途中、一休み出来るようにと小さな"フランス館"を造らせます。
  ルイ十五世は、歴代の国王の中でも特に愛妾が多く、中でも美貌と教養を兼ね備えたポンパドール夫人は、国王に多大な影響力を持った女性でした。二人は散策の途中、ここでしばし休んだり、軽食をいただいたりしました。
  内部の装飾は、この近くの新家畜園に飼われていた、鴨、鳩、鶏、白鳥などのモチーフ、子供の群像、花や大壺などの彫像で飾られとても可愛いらしいです。
  この館の周りには、植物に造詣が深かったルイ十五世が、庭園師クロード・リシャール父子に命じて造らせた植物園、温室があり、その後、植物学者のベルナール・ド・ジュシュが造園に参加し、この庭園には世界中の植物が植えられていました。王は、よくここに宮廷人を連れてきて、珍しい草花、小動物を見せたりする事をたいへん好んだそうです。

  フランス館から小トリアノンに向かって右側には、''サロン・フレ''(清涼の間)と呼ばれる食事をする小館があったのですが、今はありません。フランス館は、ルイ十五世とポンパドール夫人がよく散歩の途中で休んだり、軽食をいただいたりした所です。そしてここサロン・フレでは、王が大勢の人と共に、この近くの菜園で取れた野菜や、新家畜園の家禽類を使った料理をいただいたりした場所です。

  その後、このドメーヌ(領地)を受け継いだ若すぎたマリー・アントワネットは、ルイ十五世が19年間もの歳月をかけた植物学問に対する情熱をいとも簡単に捨て、当時流行の英国風庭園に変え、ここに在った珍しい植物を"Jardin du Roi a Paris"、現在の"Jardin des Plantes"(植物公園)に移したのです。
  マリー・アントワネットは、カラマン伯爵というアマチュアがパリに造園した庭園が、当時大変評判になっていたので、それに憧れ、画家ユベール・ロベールの助言を受け、建築家ミックに依頼して、岩山、木々、川、池などを配した、現在皆様がご覧になれるドメーヌができたのです。



  では、次回ではマリー・アントワネットの世界をご一緒に、彼女の思い出をたどりながら散策してみましょう。




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