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■ドメーヌ・ドゥ・マリー・アントワネット(2)


(写真1)プチ・トリアノン


(写真2)バラの王妃


(写真3)動く鏡


(写真4)小劇場


(写真5)見晴し台

  ルイ十五世の愛妾ポンパドール夫人は、散策の途中に、フランス館よりも大きくて宿泊のできるような館をと望み、建築家アンジ・ジャック・ガブリエルに依頼し、ネオ・クラシック・スタイルで1768年完成させましたのが小トリアノンです(写真1)。
  1769年6月の落成式には、すでにポンパドール夫人は亡くなっており、次の愛妾マダム・デュ・バリー列席のもとに式典が執り行われました。
  ルイ十五世は、1774年4月26日、ここで病にかかり、王はこのまま小トリアノンに滞在したかったようですが、宮廷エチケット(宮廷典範)があり、王としての病気治療、また亡くなる場所も絶対にヴェルサイユ本殿でなくてはならず、二日後の28日には、国王は小トリアノンからヴェルサイユ宮殿に移され、5月10日に崩御なさいました。
  キリスト教徒が愛妾を持っていては、天国に昇れないという理由から、デュ・バリー夫人は、万一国王が回復された時の事も考えられ、存命中は王宮から数十キロの所で待機させられていましたが、崩御後は宮廷から永久追放されました。
  1774年6月7日、王が亡くなって一ヶ月もしないうち、18歳の若い王妃マリー・アントワネット(写真2)が、小トリアノンを新王からプレゼントされました。
  王妃は、麻疹にかかった後の療養を兼ねて1779年には長期滞在を行い、それをきっかけとして、その後小トリアノンにしばしば滞在するようになります。

  宮廷エチケットの為、王太子と養育係は大トリアノンに宿泊したそうですが、王女マダム・ロワイヤル、義妹エリザベット夫人、そして、マリー・アントワネットの親友でのちに女官長の位にまで昇ったポリニャック夫人の為に、小トリアノン屋階(三階)の元々ルイ十五世の居室があった所を、泊まれるように改造しています。現在はその時代と同じように壁布、家具が配置されてはいますが、今のところは屋階は見学できません。
  入り口階段の鋳鉄製手すりには、マリー・アントワネットの''MA''の頭文字が見えます。
  王妃は、この館に上下に動く鏡入り仕掛け窓ガラス(写真3)を設置しましたし、又、新しい家具をかなり入れています。でも大革命の時に、ここの家具はたった4ヶ月の間に全て競売で売られてしまいました。この時代の多くの家具は、ロンドンのワラス・コレクションにおいて見る事が出来ます。

  第一帝政には、ナポレオンの妹ポリーヌ・ボルゲーズが住み、その後ナポレオン一世の二番目の皇妃マリー・ルイーズ(マリー・アントワネットの実家ハプスブルグ家出身)が、大叔母様であるマリー・アントワネットが終世愛して止まなかったこの館の主となります。
  ルイ・フィリップ王時代は、息子オルレアン公夫妻がこの館に住み、第二帝政の1867年には、マリー・アントワネットの大フアンでもあった皇妃ウージェニーが当時の家具を集め、この館をマリー・アントワネットの思い出あふれる記念館にしました。それ以来、ここ小トリアノンは、マリー・アントワネット・フアンには欠かす事のできない、悲劇の王妃の神聖な場所となるのです。

  マリー・アントワネット最後の小トリアノン滞在は、1789年10月5日で、それ以後一度もここに戻る事はありませんでした。

  内部見学の後、是非テラスに出て、素晴らしいフランス館、旧植物園の風景をご覧下さい。その昔、マリー・アントワネットもここで、宮殿の喧騒から逃れて静かなひとときを過ごした事でしょう。

【礼拝堂】
  礼拝堂は小トリアノンの左横、王室付使用人達の居た付属の建物の横に在ります。
  ルイ十五世の最後の工事がこの礼拝堂でした。祭壇にはヴィエンの絵画が飾られています。中には入れませんが、入り口からのぞく事が出来ます。

【王妃の劇場】
  この劇場も今回初めて一般公開されています。
  18世紀、パリには沢山の劇団ができて劇場ブームでした。ルイ十五世の愛妾ポンパドール夫人は、既にベルヴュー、ショワジィーの城に小劇場を持ち、自らもここで演じていました。
  流行に敏感なマリー・アントワネットが、彼女自身の小劇場を持ちたいと思い、1780年に建築家のリシャール・ミックに完成させたのがこの劇場です。あまり目立たなく造られ、ただ入り口のイオニア式の二本の柱、その上の彫刻が、ここが何か大切な場所であるかのように目を引きます(写真4)。
  内部は大変豪華で、ブルーと金のハーモニーが印象的です。オリジナルのブルーの絹のカーテンと金糸は、フランス大革命時に競売で売られてしまいました。ラグルネー作のアポロン、ミューズ、三美神のオリジナルの天井画は紛失してしまいましたが、その複製画がご覧いただけます。正面にはニンフが''MA''の王妃のイニィシャルを持っている彫刻があります。ここには20人位の音楽隊が入れる場所もあり、本格的な劇場になっています。
  初めは、オペラ座、コメディー・フランセーズの団員達が上演していたのですが、すぐに王妃自身とその仲間、王弟のアルトワ伯自身も舞台に上がるようになりました。マリー・アントワネットはここで村娘の役を演じたりして、フランス王妃である事を忘れ、束の間の夢を見たのです。

【見晴し台】(写真5)
  劇場を左に見ながらまっすぐ前の坂を登り、王妃が建築家ミックに造園させた散歩道を行ってみましょう。
  1777年、ミックは池を見下ろす小高い丘の上に、八角形の新古典様式の四阿(あずまや)を建てました。内部の彫刻のテーマは、庭園の楽しみ、狩猟、そして四季を表しています。床は大理石でモザイクになっています。
  1781年8月、マリー・アントワネットの兄で、オーストリア皇帝のヨセフ二世2度目の来仏の際には、王妃の劇場で観劇後、ここで花火大会が行われたそうです。
  マリー・アントワネットは、この場所で1789年10月5日、パリの市民がヴェルサイユに押し寄せてきているという報告を聞いたのです。フランス大革命の大波が押し寄せ始めました。


次回は、マリー・アントワネットが、愛人のフェルセンと密会していたといわれる場所を訪ねてみましょう。


松下 光子
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