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■ドメーヌ・ドゥ・マリー・アントワネット(3)

【洞窟】

  マリー・アントワネットが、真実の愛を捧げた人といわれるスエーデンの貴族フェルセンと密かに逢瀬した場所、この洞窟が今回初めて一般公開され、中にも入れます。だだここは非常にわかりにくくなっていまして、ほとんど訪れる人がいません。なるほど誰にも見られず、親密な時間を持てる場所なのだという事が実感できる所です。
  場所は、池を背に、見晴し台を前にして、右側の小高い岩山を右に回り込むように進むと見つかります。洞窟の入り口は木で隠されていますので、見落としませんように。
<その後、上の入り口、下の入り口を隠すように植えられていた木は抜かれております>

【村里】

  洞窟からオランジュリーを左に見て、北に向かって歩いて行きますと、藁葺き屋根の集落が見えてきます。
  1783年から1785年にかけて造られたこの村には、鴨、白鳥、鯉等がいる池を囲むようにして、田舎家が12軒がありました。現在はその10軒だけが残っています。
  マリー・アットワネットはシャンティイ城の小集落を知っていましたし、当時、ジャン・ジャック・ルソーの自然回帰の思想にも影響を受け、本当の農夫が働く村をミックに造らせたのです。

  "マルルボローの塔"(魚場塔)から見学を始めましょう。ここは一番古い農家で、この名称は、王太子の乳母が子守り歌として宮廷に持ち込んだ"マルルボローの歌"から付けれらています。



  その横の酪農小屋では、当時、大理石のテーブルの上に置かれた銀コップに、絞り立てのミルクを入れて飲む事が大流行だったそうです。
  酪農小屋の側に、納屋跡の土台が見えます。ここはかつて舞踏会場として使われていた場所です。
  その横は、昔スイス兵が詰めていた衛兵の家です。この集落では、マリー・アントワネットは、少人数の友人達に囲まれ、一女主人として振るまっていたのですが、その側には目立たないように、常時スイス兵がこの静かな村を守っていたのです。衛兵の家の隣が鳩舎です。
  ここから小さな橋を渡ります。すると、この村では一番大きな立派な建物が見えてきます。ビリヤード室と回廊で繋がっている王妃の家です。



  かつて、ここの回廊には、王妃の頭文字の付いた白とブルーの陶器に花が咲き乱れ、マリー・アントワネットはフランス王妃であることを一瞬忘れ、コルセット、かつらを脱ぎ捨て、麦わら帽子をかぶり、農夫が行き来する静かな風景を眺めていたのではないでしょうか。
  外観に反して、当時王妃の家には、家具師ヤコブとリスネールの豪華な家具が備え付けられていたそうですし、屋根は化粧瓦だったそうです。
  王妃の家の近くには料理保温の為の家屋があり、そのお隣が閨房です。

  最後に、池の側に建っている牧歌的な水車小屋を訪ねて、再び小トリアノンに向かって参りましょう。



【愛の殿堂】

  小川のほとりの小さな島に建つ、建築家ミックによって1778年に造られ、12本のコリント式の大理石の柱に囲まれたこの殿堂は、たいへん美しく、マリー・アントワネットを偲びながらの、この散策の最後を飾るにふさわしい建造物ではないでしょうか。



  中央には"ヘラクレスの棍棒から自分の弓を造るキューピット"と題する、何とも愛らしいブシャルドン作の彫刻の複製が置かれています。オリジナルはルーブル美術館にあります。

  この後再び小トリアノンに戻り、"ドメーヌ・ドゥ・マリー・アントワネット"の散策も終わりになります。

  1778年、オーストリア大使メルシーは、国元に手紙で、このドメーヌの為にマリー・アントワネットが莫大なお金を使っている事を報告しています。

  今年はソフィー・コポラの映画、''マリー・アントワネット''が評判をよび、日本でも年末か来年には上映されるようです。



  その中で使われていた陶器は、ベルナルド社(11 rue Royale 75008 Paris)提供の十八世紀の食器類です。ベルナルド社は、旧王室工場、(Ancienne Manufacture Royale)を合併吸収していますので、ヴェルサイユで使用されていた食器の復刻版もここで注文する事が出来ます。


松下 光子
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