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■ノルマンディー文学散歩


ルーアン大聖堂と筆者

  ノルマンディーは多くの文人、作家たちが訪れ、歴史や人と自然に親しみました。読書好きの旅人がゆかりの地、生家などを訪れます。
  ヴィクトル・ユーゴーの娘レオポルディヌが嫁いで程なくセーヌ川で溺死したヴィルキエの街。ユーゴーは悲しみにくれながら「ヴィルキエにて」の詩集を書きました。エトルタはモーリス・ルブランがアルセーヌ・ルパンシリーズを書いた邸宅があり、「奇巌城」のモデルとなりました。セーヌ川沿いのブイユは、「家なき子」を書いたエクトール・マロの生まれた街です。プルースト、ボードレールも避暑地でバカンスを過ごしました。


ヴィルキエ・ユーゴ博物館



モーリス・ルブラン邸


エトルタ

  かつてのノルマンディー公国の首都、ユーゴーが「百の鐘楼が連なる街」と呼んだルーアンにも多くの作家ゆかりの地が残っています。


ルーアンの街



ジャンヌ・ダルク教会

  ルーアンに没したヒロイン、ジャンヌ・ダルクの処刑場跡には、アンドレ・マルローの追悼の言葉が刻まれています。また、その先にはモリエールなどと活躍した、17世紀の劇作家、「ル・シッド」を書いたコルネイユの生家があり、当時の木骨組みの家には貴重な初版本が並んでいます。古書を眺めていると分厚い色ガラスの向こうに細い石畳の道をかける馬車の音が聞こえてきそうです。


コルネイユの生家



コルネイユの家・室内

  ルーアンの小高い丘から街を見下ろしていた遠藤周作氏は丘の上のロビンヌ家で過ごし、マダムにフランス流お作法をたたきこまれたと日記に書いています。
  「ボヴァリー夫人」の作者フローベールは1821年ルーアンで生まれました。父は名医と名高く、当時住んでいた市立病院の外科部長用の邸宅が、現在「フローベールと医学博物館」になっています。フローベールはパリで法律を勉強していましたが、神経症に悩まされ、小説に専念することを決心し、セーヌ川沿いルーアンの西、クロワッセ村に移り住みます。当時の白い2階建の家はフローベールが亡くなった後取り壊されましたが、その離れ(Pavillon)と庭の一部だけが残っています。ルーアンのブルジョワ達を嫌っていた彼は少数の友人にしか会おうとしませんでした。ジョルジュ・サンド、モーパッサン、ドーデ、ツルゲーネフなど友人とこの離れで、セーヌ川を眺めながら語り合いました。フローベールは夜、庭で自分の小説を大声で読み上げ、少しの音調の狂いも容赦しませんでした。近所の子供たちは「隣のフローベールさんの息子は気味が悪い」と怖がっていたそうです。


オウム



フローベル像

  「ボヴァリー夫人」は主人公エンマがルーアン近郊の小さな村へ医師の家に憧れてお嫁に行ったものの、夫の凡庸さ、結婚生活の退屈さに耐えかねて村の名士や若い青年と不倫してしまうのですが、ルーアン大聖堂がこの青年との待ち合わせ場所でした。青年レオンは早くエンマと馬車の中で二人きりになりたいのだけれど、エンマは良心の呵責から聖母マリア祭室で祈りを捧げるくだりがあります。又この大聖堂にはフローベールが見上げながら三つの物語という短編集の構想を練っていたといわれる、「聖ジュリアン伝」のステンドグラスが飾られています。その短編集に出てくる「純な心」の家政婦が飼っていたオウムを描写するために、フローベールはルーアン自然史博物館から剥製を借りたそうです。現在2つのオウムがクロワッセと生家に展示され、どちらが本物かという謎をめぐってイギリス人バーンズが「フローベールの鸚鵡」という小説を書きました。


フローベル博物館



フローベルの墓

  フローベールは30、40枚の原稿に、線を引き書き直し、くしゃくしゃにして破り捨て、結局5枚に仕上がるというように、神経をすり減らしながら筆を運んでいました。その苦労がうかがえる手書きの草稿がルーアン大学と図書館の協力によりインターネットで閲覧できるようになりました。フローベールはルーアンの街から少し坂を上った墓地に眠り、両親の墓にそっと寄り添うように小さな墓碑が建てられています。
  ノルマンディーでのんびりと文学散歩はいかがでしょうか。

ルーアン観光局 http://www.rouentourisme.com
フローベールの家(Pavillon Flaubert)土日14時〜18時開館
8, quai Gustave Flaubert Dieppedalle-Croisset 76 380 Canteleu


川西 敦子
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